後ろ手に縛られた安西の前でドアが開いた。
30坪程のそこは暴力団事務所らしからぬシンプルさで、それが余計に不気味に思える。奥の机では木庭がパーラメントを燻らせていた。その両脇に二人の構成員が立っている。彼等はよく訓練された兵士のような印象を与えた。
3人に連れられた安西に、縛られてソファに座る武藤の姿が見えた。
「こいつらヤバイよ安西。伏谷さんはどうなってんだ?」
「あの人は使えねぇ。篤誠会じゃ相手が悪ぃってっさ……悪ぃな武藤」
「……そうか……」 そう呟き武藤は力なく項垂れた。
「見かけによらず強えんだな、安西君」
木庭が立ち上がる。
「あんたが木庭さんか」
「声もうわずってねぇ」
安西に向かい歩きだす木庭。
「たいしたタマだ」
「今回の件は俺が武藤を無理やり巻き込んだんだ。
コイツは解放してやってくんねぇかな」
武藤の横で立ち止まる木庭。
「根性あっても頭はあんま良くねぇな」
ソファに掛けてテーブルの上のアイスピックを取り……武藤の左膝を刺す。叫び声を上げる武藤。
「やめろっ!」
木庭に向かって跳び掛かろうとする安西は髪を掴まれ、膝の裏を蹴られ跪かされる。
「俺は君の嫌がる事をする。だから慎重に喋った方が良い。
『まんじゅう怖い』みたいな内容をな」
同じ空間を共有しながら世の中には色んな世界が存在する。
安西は今更ながら自分が足を踏み入れた世界を認識した。
相互扶助から生存競争。
対極にある二つの考え方。
どちらを信条とし実践するかが天国と地獄を分ける……
ここは間違いなく地獄だ。
「木庭さんアンタ勘違いしてる。俺は誰よりも自分が大切だ。他人なんかどうでも良い。
この状況で俺が唯一怖いのは……アンタとサシの勝負だ。
もしそれが殺されるか解放されるかが懸った勝負だったら、特に怖くてチビリそうだ」
安西が喋り終わると空気が一瞬凍りついた。
「どうだ? 今のが俺の『まんじゅう怖い』だ」
木庭の一瞬ひきつった表情が笑いに変わった。
武藤の足からアイスピックを抜く木庭。武藤の強張った体の力が抜ける。
「挑発しても無駄だ。残念ながら俺はサシの勝負で熱くなるほど若くねぇ。
今興味あんのは篤誠会に逆らったお前たちの処分だけだ」
武藤が掠れた声で呟く。
「俺たちに選択の余地はなさそうだな」
「選択肢は二つ用意してる。お前等の好きな方を選べば良い。
まず一つ目、シンプルに金で解決コースだ。
慰謝料として二人で1,000万用意しろ。そうすりゃ今回の事は水に流してやる」
木庭を上目遣いに見据える安西。
「無理に決まってんだろ、1,000万なんて……」
「そうなるともう一つの死んで解決コースしか残ってないんだけど、いいのか?
因みにこっちのコースはお前等が死んだ後はお前等の親族から取り立てる……1,000万」
安西と武藤はまさに死んだような面持ちで脂汗を浮かべ俯いていた。
既に自分達では収拾が付かない状況に陥っていた。
知らず知らずに蒔いた愚行という名の種が一気に実り、悪しき蔦が全身に絡みつき身動きを封じる…そして常に多くを失ってきた自分の手に残る僅かなモノですら奪い去ろうとする。
「どっちのコースだ?」
木庭は二人の表情を覗きこみ明らかに愉しんでいるようだった。
「おい松井、さっきの持って来い」
木庭の指示で大柄の男がクリアファイルを手渡した。
そこから取り出した資料を無言で見ている木庭……辺りには資料を捲る音だけが聞こえる。
「武藤君はアレだなぁ、実家が凄げぇな。酒造ってんのな。」
驚き顔を上げる武藤。調査資料?こいつ等は勢いだけじゃなく思った以上に用意周到だ。
「これなら5・600万は堅いんじゃないの? 親に泣き入れて工面して貰ったら?
それで死なずに済むんだから、働いて返したらいいじゃない」
「少し……考えさせてくれ」 力なく項垂れる武藤。
「解った。じゃぁ後で返事をきく」 今度は安西に向き直る木庭。
「ところで問題はアンタの方なんだ安西君。母子家庭で育ったんだって?」
「関係ねぇだろ」
「関係あんだよ、金取り立てんだから。
それにしてもお前のオカン、温泉町のストリッパーかよ。最悪の家庭環境だな」
「うるせえよ。お袋、侮辱すんな」
「侮辱するつもりはねぇよ。
ただ場末の劇場の歳くったストリッパーなんて考えただけで泣けて来るよ」
「それ以上舐めた口きいてっとブチ殺すぞこのシャブ中」
見兼ねた武藤が声を出す。
「やめとけ安西」
「怖いねぇ安西君。そう熱くならずに偏見に満ちた俺の意見なんか聞き流せよ。それとその状態でどうやって俺を殺すんだ? お前が言葉に気を付けろ」
後ろ手に縛られ後ろから髪、両側から二の腕を掴まれて身動きの取れない状態で
鼻から大きく呼吸をしながら木庭を睨む安西。
「しかもお前の女、伏谷んとこのシャク屋で働いてんだって?」
「あの女とは別れた……もう関係ねぇ……」
「ホントか?」
「嘘ついてどうすんだよ」
「まぁいい。俺はお前に会う前からどんな男か凄く興味があったんだ。母親がストリッパーで女が風俗嬢。男の性欲喰いもんにして生きてる男。それもヒモなんてレベルじゃなく生い立ちからそうときてる。
何喰って大きくなったか知らねぇがお前には頭のテッペンから足の先まで男の性欲が詰まってる。
しかも殆ど純度100%だ……。安西、お前は存在が卑しい。考えるだけでヘドが出そうだ」
「本気で人を殺したいと思ったのはアンタがはじめてだ……。
お袋も涼子も真剣に働いてた。
二人ともこんな俺の為に真剣に働いてくれた。
二人が俺に与えてくれたのは……追い詰められた人間のなけなしの愛情だよ。
人を泣かせた金で生きてるクズみてぇなテメェに、侮辱する資格はねぇ」
「泣ける話だねぇ。お前もこうなるまで俺等となんら変わらねぇクズだったろ。
いつの間に立ち位置変わったんだよ」
「涼ちゃん、昨日はホントにごめんな」
ボブは俺の横で素直に頭を下げ、俺のマグカップを手に取りコーヒーを一口飲んだ……なに勝手に人のコーヒー飲んでんだコイツ。
「私のほうこそ……彼を止めれなくて……ごめんなさい」
『彼』ってフレーズの部分、明らかにボブの顔が紅潮したのが解った。
「昨日は体が竦んで動けなかったけど……
晩飯UFOだけだったから、それが原因だと思うんだ。
今度あんな事があったら絶対俺……涼ちゃん護るから」
「ありがとうボブさん」
「もしさ……俺が大学辞めて、良い仕事見つけて稼げるようになったら……今の仕事辞めてくれる?」
「違うんだボブ……」
「何が違うんだよ!
ちょっと話しただけで涼ちゃんの事、解ったような口きかないでくれよ!」
「声でけぇよお前。なに一人でマイストーリーすすめてんだよ。
今のお前は自分の考え伝えるより涼子さんの気持ち知る方が大切なんじゃないの?」
「涼ちゃんの気持ちってなんだよ」
「とにかく黙って聞いてろっつってんの」
「彼が……安西がボブさんに昨日のこと謝りたいって……
今私からの連絡待ってるんです。会ってもらえませんか?」
「嫌だね」
「あんな事して虫がいい話だとは思います。でも……どうしても嫌ですか?」
「アイツは最低だ。謝って貰っても許す気もないし、会う価値ないよ」
「ボブさん、それは誤解なんです」
「どこが誤解なんだよ!」
少しヒステリックにボブは叫んだ。
「俺には良いよ、俺に掴み掛かった事は良いとしてもアイツ涼ちゃん殴ったんだよ。
最低だよな堀渕さん。あいつ女の子に手をあげたんだぜ。最低だよな」
「あぁ、最低だな」
昨夜砕かれたボブの自尊心は涼子の彼氏を責める事でやっと機能しはじめたのだろう。
でもそれは相手を否定する事でしか成り立たない自己欺瞞に満ちた不健全な自尊心だ。
「でもなボブ、それはひとつの行為に過ぎないし彼は反省してるんだ。
俺は人格まで否定するような問題じゃないと思う」
「だったら何? 反省すればなんでも許されんの?」
「誰もそんなコト言ってねえだろ。お前さっきから許すとか許さないとか何様なんだよ。俺に言わせりゃ殴った方も黙って見てた方もたいして変わりゃしねえよ」
「……」
「涼子さんの為にとか言ってっけどお前が拘ってるのは傷ついた自分の安っぽいプライドだろ。
お前は当事者の一人なんだからお前の思考や行動が違えば違う結果もあった筈だ。
お前が目を向けるべき事は人の非じゃない。自分の非を認めてその克服に全力を尽くす事じゃねえのかよ。そうすりゃ人の行為に目くじら立てるコトもなくなるよ」
「堀渕さん、ボブさん責めるのはやめて下さい。悪いのは私達なんですから」
「いんだ涼ちゃん……」
虚ろな視線を漂わせながらボブは何かを考えているようだった。
「いんだ。いつもこうなんだよ。慣れてっから俺……。堀渕さんていつもそうだ。
訳の解んねぇ理屈ならべて人を追い詰めて、結局この人が周りに伝えたい事は自分の事だ」
「なに言ってんだボブ」 俺はわが耳を疑った。
「俺は賢い。俺は正しい。俺は優しい。俺は人に愛される価値がある……
人の悩みをネタにして、自分はそこに座って裁判官気どり。
出来る事は六法全書の代わりに自己啓発書の受け売りでお説教する程度。
誰がアンタの言う綺麗事なんか信用するかよ!」
「今度は俺の所為か?」
俺はボブのその思いもよらない反応に怒りではなく脱力感を覚えた。
立ち上がりドアに向かって歩き出すボブ。
「涼ちゃん行こ。送ってくよ」
涼子は俺とボブの様子を伺いながら戸惑っている。
「外で待ってるから」
ボブはそう言うと俺に目もくれず事務所から出て行った。
「私が来たばっかりに迷惑掛けて……本当にごめんなさい」
「なに言ってんの、それこそ俺の所為だ。気にしなくていいよ。
良かれと思ってやってんだけど……どうも上手く伝わんなくてさ」
「私……ボブさんが言った事、本心じゃないと思います」
「そう願いたいね」
「私は救われました、堀渕さんの言葉に。本当に有難う御座いました」
そう言って涼子は深々と頭を下げた。
「コーヒーご馳走様でした」
「インスタントだけどね。あっカップそのままで良いよ。ボブ待ってるし」
「そうですか?」
涼子は片付けかけたカップを置いた。
「堀渕さん、またお邪魔しても良いですか?」
「勿論。いつでもおいで。今度は彼氏も連れて来るといい」
「はい。そうします。有難う御座いました」
ドアの前でもう一度頭を下げて涼子は出ていった。
ボブの姿がドアの向こうに一瞬見え同時にさっきの言葉が頭を過った。
「……なんじゃそら……」